お祭りダブルヘッダーの日@時代祭→鞍馬の火祭

2005/10/22
10月22日、京都はお祭りダブルヘッダーの日です。今年は土曜日ということで、両方を見に行くには絶好の曜日まわり。前日に比べて、ぐぐっと気温が下がったこの日、フィジカル的にかなりタフな一日でした。

☆第一試合:時代祭@京都☆
時代祭は、明治28年に始まったという、京都では比較的新しいお祭り。京都市観光局のホームページによると、葵祭・祗園祭・大文字の送り火に並ぶ「京都4大行事」のひとつです。ということもあって、かなり混むだろうと思い、今回は京都御苑の観覧席を購入しました(1枚2000円)

時代祭は、明治維新時代→江戸時代→安土桃山時代→吉野時代→鎌倉時代→藤原時代→延暦時代の7つの時代を、およそ2000人の行列で表現するという、立体絵巻です。それぞれの時代の衣装・調度品・祭具を一度に見ることができます。すべてを見終えるのに1時間30分はかかるという長ーい行列です。

行列は正午に京都御苑をスタートして、御池通→三条→平安神宮と至るコースを5時間近くかけて練り歩きます。行列の参加者は、動きづらい衣装を身につけ、重いものを持ったまま、長い時間をかけて、それなりの距離を歩くことになります。こりゃ大変だ。これが京都人の心意気か。人間なら70歳にあたるという「暴れん坊将軍」にも出演した白馬も登場してました。

時代をさかのぼるにつれて、衣装は、形の上でより原始的に、動きづらいものになっていくことがよくわかります。衣装の歴史をひもとくにはいいのかもしれませんね。

観覧席は、行列のすぐ横に段差なしでパイプ椅子が5列ほど並ぶという味気ないものでした。まあでも、京都御苑で見ると言うことは、行列の参加者もスタート直後で気合いが入っているし、衣装も乱れていない。馬が興奮したり、糞しちゃったりと、結構ハプニングも見られます。ただ、行列にテンポのある動きや音がないことと、それぞれの衣装や調度品のありがたみがわかりにくく、せっかくの立体時代絵巻の良さや面白さが伝わりにくかったように思いました。

※インターバル※
ダブルヘッダーを順調にこなすには、時代祭をスタート地点(京都御苑)で見ることに意味があるということが、後になって判明しました。というのは、時代祭の行列を最後まで見て、鞍馬に向かう叡山電車の出発地・出町柳に行くと午後3時。すでに電車は火祭りを見に行く人でラッシュのように混雑していました。これが平安神宮で見終わってからだと、出町柳で電車に乗るまでにかなりの時間がかかるということでした。

☆第二試合:鞍馬の火祭☆
鞍馬の火祭は、京都三大奇祭のひとつで、その勇壮さで知られています。この祭の起源は西暦940年にまでさかのぼります。当時、平将門の乱や大地震などで、騒然とした世の中を鎮める願いを込めて、鞍馬に由岐神社を建てたのだそうです。その神社建立の際に、1?にも及ぶ松明の行列ができ、それに感動した住民がこの経験を後世に残そうとしたのが祭の始まりのようです。

火祭は午後6時開始ですが、僕が現場に着いた午後3時半過ぎ、見やすい場所はすでに熱心な観客がポジションキープをしていました。ボケッとしていると、見る場所をなくしてしまう、ということで、沿道のお店の商品を一つ買い、そのお店の前に陣取ることにしました。陣取ると言っても、ただ突っ立っているだけ。トイレにも行けず、食事にも行けず、山のふもとで近くにコンビニはありません。祭の開始までの約2時間、吹きすさぶ寒風に吹かれ、時には冷たい雨にうたれながら、本を立ち読みしつつ、開始を待ち続けました。

午後6時。あたりもすっかり暗くなって、沿道の松明に火がつきます。それとともに、白装束を着たイケメン君が、聖火ランナーのように現れて、「神事にまいらっしゃーれ」と大声で言いながら神社に向かって歩いていきました。これが祭の始まりを知らせる「神事触れ」(じんじぶれ)というそうな。

すると、子供が短めのバットくらいの長さの松明の束(トックリというそうです)を肩に乗せて、沿道を通っていきます。子供の脇には両親が付き添い、我が子を励ますかのように「サイレイヤ、サイリョウ」というかけ声をかけていきます。このかけ声こそが、この祭り独特のお囃子です。

時と共に、松明をかつぐ人が小さい子から中学生くらいになり、やがて大人へと変わっていきます。松明の大きさもそれとともに、大きくなっていきます。松明の数もどんどんと増えていきます。大人の担ぎ手は、飛脚のような衣装を着ていました。はちまきを締め、襦袢の上半分のようなものを着て、ふんどしをはき、その上に下がりをつけ、黒のハイソックスのようなものと草鞋をはいてます。ふだん見るとけったいな格好ですが、お祭りの中では勇壮でかっこよく見えました。

鞍馬の火祭1

午後7時半すぎ、最も大きい松明が登場します。これは神楽松明と呼ばれ、茶せんのような形をしています。長さ4メートル、重さは100?を優に超えるということです。これを3人ががりで抱えて街を練り歩きます。これが出てくると、街全体が松明のオレンジの灯りで彩られ、「サイレイヤ、サイリョウ」というお囃子があちこちで聞こえてきます。

松明の先端につけられた火は、時と共に勢いが増し、担ぎ手の背中を焦がしそうなほどになります。すると、僕のそばにあった、大きな樽から水が汲み出され、松明にバシャッとかけられます。火の勢いは当然なくなりますが、同時にすんごい煙がもうもうと出てきます。この煙が観客を包み
込み、目を開けていられないほどです。悲しくもないのに目から涙があふれます。まさに号泣!

鞍馬の火祭2

夜が進むにつれて、気温もぐぐっと下がってきて、息が白く見えます。目の前に松明がたくさんあるのに、体は冷えてきます。酒でも飲んで、体を温めたいところですが、トイレが見あたらない。ということで、参加者も観客にとってもタフなお祭りなのです。

祭のクライマックスは午後9時すぎ。大きな松明が鞍馬寺山門の前に集合します。太鼓が打ち鳴らされ、「サイレイヤ、サイリョウ!」という声がこだまします。ひとつひとつの松明から、大きな炎にまとめられ、オレンジ色の光がより一層強くなります。石川さゆりの「天城越え」ではないですが、「山が燃える〜」ようにすら見えます。

鞍馬の火祭3

山門前の注連縄(しめなわ)が伐り落とされて、神輿が山門の石段を下りる、という段取りになっているということですが、なにせすごい人だかり、松明の煙で視界が悪くて見えませんでした。沿道に張られた規制がある程度緩められて、観光客が山門の石段から約50m下のところに集まります。結構、外国人観光客の姿が数多く見られました。

午後9時半、これ以上のものは見られないと勝手に判断して、叡山電車の鞍馬駅に向かうと、そこには大行列が。2両編成の電車がピストン輸送しますが、どんなに頑張っても列車は12分おき。乗車までに70分以上かかりました。本当に急ぎたい場合は、貴船口駅まで一駅歩いたほうが良かったかもしれません。そうすれば、列を待たずに行けました。結局、京阪の淀屋橋行きの最終に間に合わず、京都発0時12分のJR最終大阪行きに駆け込みました。

出町柳で叡山電車に乗る前から、大阪行きの最終JRに乗るまで、およそ8時間以上、立ちっぱなしでした。晩飯も食べられず、松明の煙でアタマはベトベト。煙くさい臭いが全身にベットリとついていました。

このお祭りダブルヘッダーですが、鞍馬の火祭でかなりの体力を消耗します。次回、そのような機会がある場合は、事前に鞍馬神社に泊まる予約をしておきたいと思いました。煙だらけになっても平気ですし、下山時間を気にせずにゆっくり見られますから。



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一年にたった一日の拝観日@大徳寺本坊

2005/10/09
原則非公開の大徳寺本坊。茶道発祥の地であり、多くの美術品が眠ると言われる名刹が、一年にたった一日、10月の第二日曜だけ、虫干し(ばく涼と呼ばれます)のために一般公開されます。この日は御堂筋パレードやら、奈良西大寺の大茶盛やら、近畿地方でいろいろと魅力的なイベントがありますが、禅寺好きの自分としては、大徳寺を優先させてしまいます。ということで行ってみたら、展示されている掛け軸94本のうち、5本が国宝、31本が重要文化財。つまり、全体の38.2%が重文以上という、まさにイチローもビックリのお宝確率なのでした。

さすがに貴重な拝観日ということもあって、団体客も含めて、なかなかの混雑ぶり。美術を研究する学生や、禅を愛する外国人も多数見られました。拝観料は1300円。展示品についての詳しい説明と写真入りパンフレットが1000円。結構なお値段ですが、これも文化財保護のため。ニコニコと払って入りました。

奥に進むと、方丈に入ります。うぐいす張りの床がキュッキュッと鳴っています。右手には聚楽第から移してきた唐門。軒周りの彫刻がコテコテ。そう、西本願寺で観たものとよく似た、桃山ド派手ワールドがここにもありました。その手前には枯山水の庭が広がります。

第一室から第六室まで、確かに虫干しと言われるように、掛け軸がズラーッと掛けられています。普通、美術館だと人の動線に沿って順路が決められて、観客がスムーズに動いていくんですが、そこは和風。部屋に入って正面、右手から最も価値のある掛け軸が並び、その次に両脇を見るという並びになっていて、動線としてはあまりよろしくない形になっています。お作法上は正しいわけで、ある意味、厳しい禅寺らしいと言えますね。

部屋に入ると、パンフレットの解説を読んでは、掛け軸を見上げる、という具合に首が忙しい。おっと、油断していると掛け軸の下の襖絵を見逃してしまう。狩野探幽が末期に描いたという、いい感じに枯れた梅の絵などが、襖にひっそりと描かれています。ふと外を見ると、枯山水の庭園。まさに気が抜けません。ただし、大きく「撮影禁止!」と書かれた紙が貼ってあって、さすがに写真もビデオもNGでした。

ということで、いくつか印象に残ったものを紹介すると、ひとつは中国から伝来した2対の竜虎図。紙は少し風化して、絵も少しぼやけてきていますが、目つきの鋭さはかなり伝わってきます。暗闇の魔術師、レンブラントも使わない表現でしょう。あれ、夜中に見たら、結構怖いかも。

この大徳寺を始めたという、大燈国師の肖像画3本は、1本がオリジナルで残りはその模倣。オリジナルの絵が、非常に困ったような顔をしているので、残り2つも同じように困った顔をして描かれています。やっぱり、昔もストレスがいっぱいあったのだろうか。

このほかにも、地獄で罪を裁くという十人の王の絵や、信長・秀吉など教科書にも出てくるような歴代武将の絵、それに天皇から来た書状などなど。額縁ではなくて表装に飾られて出てきます。こんなに近くで見られていいのだろうか、というくらいに接近することもできます。ただし、監視員から強烈にチェックが入ると思います。

本坊と足を合わせるかのように、僕の大好きな塔頭、高桐院でも寺宝の虫干しをしていました。国宝一点と、一対の牡丹の絵、などなど。こういうときに、一気に掛け軸を見れば、少しは目が肥えてくるかも。いい勉強と目の肥やしになりました。


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数寄屋造の傑作・四君子苑:シンプルで贅沢な建築の世界

2005/10/08
四君子苑とは、京都・北村美術館の隣にひっそりと佇む、数寄屋造の傑作と、モダンな増築部分が合わさった、非常に上品な家屋です。春と秋に一週間ずつ公開されていて、今回は案内つきで見ることができました。

この家は、林業を営んでいた施主・北村謹次郎氏が、当時の名棟梁・北村捨次郎氏(名前がよく似てますね)に依頼して、昭和15年着工、昭和19年に完成しました。「四君」とは「菊・竹・梅・蘭」のことを指しています。頭文字をとると「き・た・む・ら」になるというわけです(梅は、昔「むめ」と呼んでましたから、強引とは言えません)。なるほど、しゃれてる。

一室だけ洋間があるんですが、チークの寄せ木張りで、タイルのように10センチ角で縦横に凹凸なく貼られています。こんなしゃれたフローリング張りがあるなんて!

さらに、奥の茶室に向かって歩く土間の渡り廊下も、すばらしい景観。茶室は二畳とこぢんまりしていますが、池に向かっての見晴らしが端正で美しい!左側には手水鉢が、手前の床は市松模様状に張られています。この床でお茶を点てることもできるそうな。

茶室の奥に、6畳と8畳の広間がデーンと続いていて、ここから大文字の送り火の「大」が見える仕掛けになっているということです。、残念なことに、いま、7階建てのマンションが建設中で、来年には「大」が見えなくなるそうです。ということで、今年は大文字の日に茶会を開き、そうそうたる方々が参加して、お茶をいただいたあと、この広間から最後の大文字を楽しんだとか。ああ、こういう雅な習慣が、マンションによってなくなるというのは、どうなんでしょうね。

6畳と8畳の間に欄間があるんですが、ここに幅30センチ、厚さ3センチちかい桑が、まな板状に使われています。育ちが遅くて、材料として価値が出るまでに200年はかかるという無垢の桑を欄間に使うというのは、すんごい贅沢です。畳の目も細かくて、しっかりしていました。良い材料が、シンプルなデザインの中で何事もなかったかのように使われている。それが数寄屋建築の凄みだということを、改めて感じさせてくれました。

それにしても、こんな物資のない時代に、よくこんな立派な建築ができたものだと思ったら、国(つまり戦争)に供出する前の名木を安く手に入れて、仕事がなくてうずうずしていた60間近の棟梁が一生懸命時間をかけてつくった、というのが真相でした。名木にとっても良い使われ方だったのではないでしょうか。その証拠に、漆喰に全くヒビが入っていないんです。修理したわけではなくて、これは壁を充分に乾かしてから塗る、ということを繰り返した上で、住み始めたからなんだそうです。

ここは、建築よりも庭園内に置かれた石造美術が充実しているという説明がありました。鎌倉時代に造られた日本で最も古い燈籠など、重要文化財3点ほか、約60点が見事な配置で置かれています。石造美術はよくわからないのですが、形の力強さとか、バランスの良さなどを見ることができました。

まあとにかく、お施主さんの北村氏は、大変な数寄者であることがわかりました。昭和初期、お金と時間があって、施主の知性と作り手の技術が合致した、日本文化最後?の傑作かもしれません。年に2週間しか見ることができませんが、これは要チェックです。


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京都の老舗に学ぶ:半兵衛麩

2005/10/06
生麩田楽をはじめ、京都の麩はもっちりとしておいしい! 麩をつくって316年という老舗「半兵衛麩」の11代目に、伝統未来塾の講座を通してお話を伺うことができました。これは、老舗の教訓に満ちたお話で、とても勉強になりました。以下、メモをもとにした抜粋です。

「麩は中国で生まれたもので、中国では「麺筋」と呼ばれていました。小麦粉を練って練ってどんどん水を加えて、チューインガムのようになったものを煮たり焼いたりして食べます、要するに小麦たんぱく質のかたまりです」

「京都の水は花崗岩を通ってくるので、軟水なんです。これが麩をやわらかくする作用があります。関東の場合、火山灰(関東ローム層)を通ってくるので、硬水なんです。その場合、麩が固くなってしまうんです。だから、おいしい麩は京都でしかできないんです」
→ここで京都の軟水を生かした食文化の話がでてきました。食べ物と水が合っているということを聞くにつけ、昔の暮らしが合理的にできていたことを物語っているように思えます。軟水は昆布だしがとりやすく、硬水はかつおだしがとりやすいそうです。

「半兵衛麩の初代は京都御所でご飯造りと門番の仕事をしていました。なかなか生計が立てられなくて、軌道に乗ったのは3代目のときです」

「京都府の老舗調査によると、老舗の伝統が残されるのは、3代目が頑張ったかどうかなんだそうです。逆に言えば、大半の会社は3代目でつぶれるんです。初代が立ち上げたビジネスを2代目が楽に引き継ぎながら、夜は遊ぶ。3代目は2代目が遊んでいることを間近で見ているから、さらに遊んでしまう。ですから、3代目が踏ん張るかどうかが生き残るかどうかのカギなんです」

「3代目が学んだのは、石田梅岩の<石門心学>です。仏教・儒教・神道などを取り入れたもので、士農工商の時代(江戸時代)に慎むべきとされていた商人の営利活動を積極的に認めたところが大きな特色です。松下幸之助さんや、稲森和夫さんなども、この学問を学び、実践に移しています。その心は、<金儲けのためにではなく、人の役に立つために物を動かす(商売をする)>、<利を求めない者は商人にあらず。ただし、儲けたら必ず(使って)世の中に還元せよ>などということです」

「こうして石門心学を学んだ三代目が残した家訓のひとつが<先義後利>です。これは荘子の言葉ですが、<人として正しい道を優先させ、自分の私利私欲は後に回せ>という意味です。もうひとつ紹介すると<不易流行>です。これは<物の本質を変えずに、時代の流れに沿いなさい>という意味です」

「我が家では具体的な話をしながら、家訓を伝えています。例えば、あられを食べるときには欠けているものから食べなさい、と言います。これは嫌なことから先に済ませよう、という意味です。嫌なことから始めれば、後が楽になる。平穏な気持ちで過ごせるわけです。昔、銀行員が融資の審査をする打ち合わせの時に、あられを出して、欠けた物から食べる人には融資をして、きれいなものから食べた人にはお金を貸さなかったそうです」

「京都人は、町衆ぐるみで高くてもいい物を作るように心がけてきました。近隣の人が粗末なものを作るようであれば『そんな粗末なもん、作ったらあきまへん。町の評判が悪くなるから』などと皆で注意したそうです。逆に、京都に新しい人が入ってきたときは、定着するかどうか、町衆みんなで様子を見るのです。ですから、京都人は排他的というわけではないんです」

「伝統とは、今まで受け継がれたことを守ることではありません。<不易流行>の精神で、常に新しいことに取り組むことを言います。受け継がれたことを守るのは<伝承>というのであって、日本ではただひとつ、伊勢神宮の式年遷宮(20年に一度)のことを指すのです」

***
ふむふむ。言うことなるほど、ごもっとも。歴史を乗り越えた重みをひしひしと感じました。半兵衛麩は、戦争中、営業活動を一切せず、家宝を売ってしのいだそうです。戦後、「あんたら、ようがんばったなあ」と、お客さんが長年の苦労を認めて戻ってきたということです。ホントに、いいお話です。

お話をうかがったあとで、<むし養い>という名のランチをいただきました。麩料理のフルコースでした。生麩田楽や麩のしぐれ煮など、色彩もバリエーションも豊かでした。なぜ<むし養い>と呼ぶのかというと、腹が減るとお腹の虫が鳴きますよね。それを鎮める、つまり「これでも食べて、腹の虫を養ってください」というお店のメッセージだということです。食べてみたら、腹の虫を養うどころか、かなりしっかりお腹にたまりました。

半兵衛麩:むし養い


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