密教の地・高野山へ

2006/07/29
日本史でその名は知っていても、どういうところなのか、わからない。密教の聖地だからなのか、山奥にあるからなのか、高野山にはそういうイメージを持っていました。冬は雪に閉ざされて行きづらい、逆に夏は涼しくて快適、ということで、この時期を選んで行くことにしました。

日本の歴史と宗教を語る上で、空海は避けることはできない存在です。その空海が、816年に金剛峯寺を開いて以来、およそ1200年にわたって、日本の仏教を支えてきた中心地のひとつと考えてもいいのではないでしょうか。密教修行の地ならではの静寂と緊張感を期待しましたが、現実は違うものでした。

高野山へは、難波から南海電車で向かいました。特急「こうや」に乗って快適に行こうと思ったものの、当日の手配で大丈夫、とタカをくくっていたら、全席満席でした。ということで、ロングシートの通勤電車に揺られて1時間40分ほど、高野山のふもとの極楽橋まで。電車はハイキング姿のおばちゃんで一杯でした。不思議なくらいに男がいない。おばちゃんたちは、高野山までの交通費がいくらかかったか、あら私得しちゃったわ、などと大阪らしい会話を延々としていました。極楽橋に近づくにつれて、電車は山の尾根をゆっくりと、車輪をきしませながら登っていきます。雄大な、日本らしい山の景色が、進行方向右側に広がります。

極楽橋からは、電車に合わせてケーブルカーが出ています。線路端には色とりどりの花が咲いています。ユリとムクゲと...緑が青々として、夏らしくない湿った色をしていました。やはり高野山は大阪よりもずっと涼しいことが、こういう植生からもうかがうことができます。高野山駅からはバスしかアクセスできません。こうして金剛峯寺に近づくにつれて、昔、ここがいかに奥深い山だったのか、この地に大きな伽藍を建てることの困難を想像しました。人里離れた修行の地として、空海がこの山奥を選んだ理由がわかるような気がしました。

まず向かったのが、壇上伽藍。いったいどうやってこの大きな材料を運んできたのか、と思うほどの、大きくて立派な建物が並んでいます。中でも目を引くのが、鮮やかな朱色の根本中堂。解説によると、ここが大日如来のいるところで、仏教世界の中心地だということ、でした。200円で中に入ることもできます。立派な金ぴかの仏像が肩を並べるように立っていますが、鎌倉時代の仏像のような威厳を感じるには至りませんでした。建物の多くは昭和初期につくられたものですが、最も古い不動堂(国宝)は1198年に建立されたお堂で、屋根がひときわ美しく、一見地味ですが凛とした姿が印象的でした。

高野山・根本中堂

続いて、隣の金剛峯寺へ。狩野元信に狩野探幽、雪舟の襖絵がすばらしい! こういう山奥にこんな素敵な襖絵が来ること自体、高野山のご威光を感じさせます。日本最大の枯山水の石庭もこの奥で見られます。この勢いで、近くの高野山霊宝館に向かいます。ここにも国宝や重要文化財が、無造作なくらいに何気なく陳列されていました。奈良時代の写経を巻物にしたものが非常に端正な字で印象に残りました。でも、空海(弘法大師)の直筆の書を見ることはできませんでした。見たかったなぁ。

高野山の中ではバスが1時間に1〜3本のペースで出ています。難波からだと高野山までの往復切符に山上バスの乗り放題券、お土産や拝観料の割引がついた、フリーパスが出ているので、それを使いながら、バスを最大限活用するようにしました。バスの時間に合わせて行動すると、時間を非常に有効に使えます。

最後に向かったのは、空海が眠るという、奥の院。金剛峯寺から奥の院入口へはバスで10分程度でしょうか。距離的にはそれほど感じません。奥の院まで、立派な杉の木と燈籠と何万基もある墓石の中を歩きます。企業の物故者のための大きな墓場や、大金持ちの墓、豊臣秀吉や武田信玄などの戦国武将の墓があって、その墓を見るだけで高野山の奥深い歴史を知ることができます。ただ、墓を見学したくても、おびただしい蚊が襲ってきて、落ち着いて墓を見ることができません。立ち止まっただけで、足に同時に3カ所くらいに刺されるような感じ。足中がかゆいです。

空海が眠る大師御廟は、奥の院よりせせらぎを渡ってさらに奥。ここは撮影禁止、喫煙禁止ということで、真言宗の聖地らしく、荘厳な空気に包まれます。御廟の前の礼拝堂には、消えない火が祀られていました。天井にはびっしりと灯籠。御廟の前でしっかりと日頃の健康に感謝。それにしても撮影禁止だというのにぱしゃぱしゃとデジカメを撮っていた外国人観光客の無神経さに腹がたちました。ま、海外出れば、日本人も多かれ少なかれやってることですが...

こうしてあっという間に高野山一周はおわります。山上での滞在時間は、4時間40分ほど。残念だったのは、想像以上に観光地化が進んでいたことです。誰もが来られるように、という狙いはわかりますが、あまりにも人が多くて、密教修行の地としての神秘性は、ほんの一端にしか見られませんでした。残念です。




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祗園祭(2)宵山〜山鉾巡行

2006/07/17
祗園祭では、合計32基の山と鉾が中心部に点在して、あの人混みの中、すべてをつぶさに見ることはできません。去年は何もわからずにひたすら量的にたっぷりと見ましたが、今年は2年目。人混みも多く、湿度も高いので、ポイントをしぼって見ることにしました。

1)宵山
この日は菊水鉾に注目しました。ここには和菓子「したたり」(1本1100円)が売られています。したたりは、菊水鉾に献上されるお菓子として知られていて、黒糖の味がほどよい加減で出た、琥珀色の上品な和菓子です。ふだんは亀廣永という老舗の和菓子屋さんで売られていますが、宵山の日には、菊水鉾のそばで売られています。近くにはお茶席があって、したたりとお抹茶を一緒にいただきます。しかも、ここで出された立派なお皿を持ち帰ることができます(2000円)。これを安いと見るか、高いと見るかは見解がわかれるかもしれませんが、一夜限りの貴重な体験とよいお土産になるのではないかと思います。

それぞれの山と鉾は毎年修繕を重ねられていますが、それには多額の資金が必要です。ところが、この修繕に大金を投じるほどのお金持ちは、京都にはそう多くいません。そこで、各山鉾ではいろいろなグッズ(ちまきや扇子など)それに山鉾拝観料収入などによって、修繕予算をひねり出すようになっているそうです。そういう意味で、この菊水鉾にはオリジナリティを強く感じました。


2)山鉾巡行
何と言っても面白いのは、他の通りと比べて、ひときわ道幅の狭い新町通。ここで見ていると、大型の鉾が電線をひっかけたり、家屋の軒にぶつかりそうになりながら、ぎこちなく進んでいくさまが非常にスリリングです。だんじり祭と同じで、あの数十トンはあるという鉾を、てこでコントロールする場面がありますが、それを使う人間が、最も危険な位置にいて、なおかつ安全運行上最も重要な役割を担うことが見て取れました。あの大きな鉾がてこに乗っかっては落ちるたびに、ドシンという鈍い音を響かせていました。その迫力に圧倒されました。

例年多くの観光客であふれかえるはずですが、今年は大雨で、去年の6割くらいでした。それでもカメラを手にした方々が数多く来ていて、陣取り合戦を繰り返していました。これが結構仁義なき戦いなんです。プロもアマチュアも同じですね。おっと、ここで伝説の四つ葉の八坂タクシーを発見!



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祗園祭(1)宵々山:京都の代表的な町家を見学!

2006/07/15
祗園祭の宵々山・宵山の間に、京都の町家には家宝が飾られることが多く、まさに「ハレの空間」となります。ただし、この空間を内側から見ることはほとんどできません。あくまで通りから眺めるのが基本。ところが今年、伝統未来塾のカリキュラムで、京都を代表する町家3軒を訪問する機会に恵まれました。


1)吉田孝次郎邸(新町通六角下ル)
家主は最初に京町家を復興させた方として知られ、京都で最も美しい町家のひとつとして、様々な番組やCMに登場しています。部屋の暗がりと坪庭・前庭の明るさが見事なコントラストで、庭の緑の鮮やかさをより引き立たせます。奥の庭は広くて日光が入るようになっていて、手前の庭は狭くて日光が入らない。すると、奥から手前に風が吹き抜けるようになるのだそうです。そのおかげで、蒸し暑い日の朝に少し涼しい風が通り抜けていました。内装も、とにかくシンプルで端正で美しい!

京都の町家:吉田家

この町家は明治末期につくられたもので、戦後、賃貸に出された後に、当主が自腹で当初の姿に復元したのです。当時はそのような懐古的なことをする人はなく、非常に珍しがられたそうです。京都の町家は何年もかけて規格が統一されてきたために、フリーマーケットで買ってきた欄間がそのままピタッと使えました。その欄間は違和感なくはまっていました。

祗園祭のための展示では、琳派の画家が描いた金屏風に、江戸初期の陣羽織、ヴィクトリア調のじゅうたん…と、取り合わせを考えながら配置されています。こういうものをコレクションしていること自体がすごいことですが、当主が毎年その組み合わせを考えて展示するための知識や美意識を磨かれていることは、さらに素晴らしいことだと思いました。

当主の吉田さんは、祗園祭の山鉾連合会副理事長で、宵々山のこの日は、多忙を極めるスケジュールになっているはずですが、少しお話を聞くことができました。以下、メモをおこしたものをランダムにつづります。

「一年は、四季・二十四節・七十二候に分けられます。それに応じて、掛け軸を替えたり、しつらいを替えたりします。そうやって、日本人は五日に一度は季節の変化を感じられる、細かな季節感をもっていました」

「お祭りは種を植える春か、収穫の秋に行われるのがほとんどですが、この時期に行われる祗園祭は都市型のお祭りで、疫病供養のために始まりました。およそ600年前から、同じことを繰り返してきました。毎年の打ち合わせでは<例年通りやりましょう>と言えば、お互いに通じて、何をするかがわかるわけです」

「この家はつくられた当時、本当にスタンダードなものだったと思います。昭和三十年代後半から少しずつ復元しましたが、市で売っていたものをそのまま使うことができました。これはお金がなかったからできたことです。内装も長押をうたないなど、合理的にできています。日本家屋は戻すことができるんです。でも夏は暑くて、冬は寒い!」

表通りに一番近い店の間には、「堪忍」(かんにん)という言葉がかけられていました。京都で商売の心得を説いた江戸時代の思想家・石田梅岩の石門心学の言葉です。我慢しながら細長く商売しなさい、という意味ですが、こういう言葉ひとつに、町家を復元した吉田さんの生き方が込められているように感じました。


2)長江伊三郎商店(新町通綾小路下ル)
江戸末期の1822年に住み始め、明治末期に増築された、奥行きのとにかく深い京町家です。およそ60mもありました。土間や屋根裏、蔵などが、当時の面影を残していました。祗園祭の宵山では、町家の住人が秘蔵の屏風を立てて、道行く人々に公開する習わしがあります。ここでは屏風の展示が充実。日本24景や琴棋書画図などが表通りから見て奥に向かって長く置かれていました。残念だったのは、蛍光灯を照明に使っていたことです。あれが間接照明になるだけで、町家の良さがひきたつのに、と思いました。


3)秦家住宅(油小路通仏光寺下ル)
明治2年に再建されたという、町家のなかでも古い方の家です。古い町家の特徴は、棟高が低くて、2階の部屋がないということです。この家は、店舗・玄関・住居の3部構成になっていて、それぞれの間に中庭があります。吉田邸と同じように、奥の庭が広く、表通りに近い方は坪庭になっていました。ここには、その子孫の方が実際に暮らしています。

前の2軒と同じように、冷房はなく、灯りは薄明かり。季節に応じて建具を替え、年末には餅つきをして、3月にはよもぎ団子をつくる。この家では、様々な人を招いて、そういう古き良き習慣を広める活動を積極的に行っています。

スローライフを地で行くような世界です。家屋の隅から隅まで、家に合った生活のあり方を非常に大事にしている。非常に神経を細やかに使っているように見えました。ここでは1日1組限定で、伝統的な家庭料理を食べられます。なつかしい気分に浸れそうです。


3連休の初日と言うこともあって、表通りは宵々山の夜を楽しむ人で混み合っていました。町家では、家宝を飾るハレの空間にいながら、少し奥に入れば、そんな雑踏もかきけすほどの静かな佇まい、ケの空間を提供してくれます。都会に暮らしながら静寂を感じる。家を吹き抜ける自然の風に涼しさを感じる。明治初期から大正にかけてつくられた町家には、都会にいながらもスローライフが失われないような工夫がたくさんされていました。

町家の良さを現代に伝えるにはどうしたらいいのでしょうか? 町家に暮らすと言うことは、生活から経済性・利便性を放棄することに近いです。今の町家復興ムーブメントが商業スペースとしての展開になってしまう理由がそこにあります。

その良さを、今の建築に活かすことはできないのかと思いました。例えば、あの細長い間取りを、現代の低層マンションに応用して、風通しの良い中庭のある物件にするとか、通りに面した窓を格子柄にする、濃い色の床板を使ってシックな空間をつくる…そういうひとつひとつのアイデアを活かすことが大事ではないかと思いました。でも今の建築学って、町家を勉強することはほとんどないのだそうです。



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ドイツW杯から帰国

2006/07/10
この日、13日間の決勝トーナメント観戦旅行を終えました。結局、準々決勝2試合、準決勝2試合、決勝の計5試合を観戦しました。ヨーロッパで開催されるワールドカップはやはり違う! 街やスタジアムの雰囲気、選手のコンディション、サポーターの集まる数も多く、その盛り上がりなど、すべてが4年前と違いました。

試合で印象に残ったのは、やはり優勝したイタリアの守備。準決勝では、ドイツを相手に1対1でことごとく勝ち、ボールを持ち込まれても見事なカットで絡めとります。首の皮1枚での勝利に見えますが、ドイツ戦やフランス戦では決定的なチャンスはほとんど与えず、地力に勝っているように見えました。

フランスも、センターバックの強さが印象に残りました。両サイドを広く開けていましたが、ブラジルは広い両サイドよりも中央突破を図りました。サイドから攻撃しても、結局真ん中ですべて止まってしまいました。ただ準決勝のポルトガル戦でPK1発での勝利など、決定的なチャンスを生み出す力という意味では、必ずしも満足の出来る内容ではなかったと思います。

1発勝負の決勝トーナメントは、ディフェンス力と一瞬の隙を突く決定力がモノをいうことがわかります。逃げ切りを図ったアルゼンチンがドイツに追いつかれてPK負け。ポルトガルはディフェンスに力があったものの、FWパウレタの決定力がなくて敗退。ブラジル、アルゼンチン、スペイン、イングランドは、選手の能力を充分に引き出せない戦術や選手交代により、持てる力を出し切れずに敗退したように思います。それも一発勝負の重みでしょうか。日本代表も、オーストラリア戦での戦略が相手より劣っていたために敗れ、クロアチア戦では決定的なチャンスでFWが外して引き分け、ブラジル戦はディフェンスの集中力が前半最後の一瞬に切れたために後半崩れてしまいました。

現地で印象に残ったのは、観客のブーイングです。あの指笛は耳が割れるようなノイズになります。テレビで見るとヒューヒューという風のような音になりますが、あの音は技術的に拾われない高い音域なのかもしれません。特にドイツ戦で地元の観客が対戦国の選手やレフェリーに浴びせたブーイングは痛いほどでした。ああいうのがホームアドバンテージなのだと痛感します。日本代表の試合はまだまだホームの怖さが足りません。

サポーターの応援も見事でした。共通のフレーズが何通りもあって、街中でもスタジアムでも誰かが始めるとそれに呼応して広がる。街に応援の歌やかけ声がこだまします。突然大声を出してもそれを拾ってくれる人がいるし、それを受容する雰囲気がある。日本代表のユニフォームを着て街を歩けば、自分が日本人だというアイデンティティになり、それがもとで気軽に声をかけられます。サッカーを媒介にして気軽に会話が広がりました。まさにワールドカップというお祭りなのです。ああいう面白さは現場に行かないとわからないですね。

4年後、再びワールドカップに行くかどうかわかりませんが、やはりヨーロッパで行われる大きなサッカー大会は、本当に面白いです。日本では、日本代表が敗退すると、ワールドカップの視聴率がかなり下がりました。世界最高のサッカーを見ようという人はまだまだ少ないようです。日本ではヨーロッパ並みに楽しく観ることは、まだまだ難しいと思います。2年後、スイス・オーストリアで行われるヨーロッパ選手権には、チャンスがあれば行きたいですね。


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W杯観戦(5)決勝:イタリアvsフランス@ベルリン

2006/07/09
決勝当日、朝からベルリンは両国のサポーターで一杯でした。ブランデンブルク門の前の"Fan Festa"や、街の中心部の広場やオープンカフェには、ユニフォームを着て、さらに国旗を身にまとったり、フェイスペインティングをしたサポーターが、同志を見つけては「アレ・レ・ブルー!」「イタリア!イタリア!」などと気勢を上げていました。ドイツ人も自国のユニフォームを着て街を歩いていましたが、表情は穏やかで静かでした。

ちょうど僕のホテルのすぐ近くに、イタリア代表の宿舎となったホテルがありました。
試合開始1時間半前、ホテルの前に青いバスがとまり、その周りをサポーターが囲んで、選手が出てくるのを待っていました。さらにその周りにはテレビの中継カメラが3台。イタリアでは決勝直前特番が放送されているようで、カメラの前にレポーターがスタンバイしていました。いよいよ選手やスタッフが出てくると、「行け!」「がんばれ!」などと声援があたりにこだましていました。

イタリア代表の出発を見届けた後、追いかけるように決勝のオリンピック・スタジアムへ向かいました。この日だけは、日本代表のユニフォームを着ていきました。このワールドカップに日本代表も出たんだよ、とアピールしたかったからです。すると、ユニフォームはアイデンティティを示すため、チケットを探し求める日本人に次々と声をかけられました。

スタジアムに着くと、いつもより観客の入りが早いことに気がつきました。やはり決勝戦。Official Fan Shopの前には、お土産を買い求める観客が、いつもよりも多く並んでいました。

席について気づいたのは、準々決勝、準決勝と、自分の近くに座っていた人たちが、やはり自分の周りにいたことです。メキシコ人、オーストラリア人、そして準決勝で立ちっぱなしだったドイツ人もやはりいました。僕が持っていたTSTというパッケージは、同じパッケージを買った人と隣り合わせになるようにできていたのです。自分の席からは、ピッチの一部が細い柱で見えなくなっていて、これで定価600ユーロ(9万円)はひどい、とため息が出ました。

試合開始前には大会テーマソングを歌うアーティストのライブと、パフォーマンスがありました。その直後に国旗・選手が入場してきて、決勝ならではの厳かな緊張感はそれほど感じられませんでした。強いてあげれば、両国の選手の列の中間にワールドカップのトロフィが置かれていて、それを横目に選手が入場したこと。これで選手たちは発奮するだろうなぁ。

試合は、ディフェンシブな展開が予想されましたが、前半7分にフランスがPKのチャンスを活かして先制すると、前半19分にイタリアがセットプレーからヘディングシュートが決まって追いつく、というアクティブな展開になりました。これはいいぞ!

しかし、その後ディフェンスが固まってくると、決定的なチャンスはそれぞれ一回ずつ。イタリアはフリーキックからのゴールがオフサイドでとり消されたもの、フランスはジダンのヘディングシュートがバーをたたいたもの。時間を追うごとに、イタリアはどんどんディフェンシブな布陣になっていくように見えました。

延長後半、問題の場面を迎えます。突然、イタリアのディフェンダー、マテラッツィが倒れて、ボールがアウトオブバウンズになると、GKブッフォンが線審に猛然とダッシュしていきました。そのジェスチャーからは「お前はあの一瞬を見ていなかったのか? それをなぜ主審に言わない?」と問いつめているように見えました。主審と線審が協議を終えると、フランスの大黒柱、ジダンにレッドカードが出されました。あまり激しく抗議することなく、ジダンはピッチを去ります。

フランスのサポーターや、準決勝で敗れたイタリアに反感をもつドイツのサポーターからは激しいブーイングが起こりました。会場には大きな画面があって、試合の映像が見られるようになっていますが、PKやレッドカードの判断要因となるプレーは再生されません。それを見たサポーターが判定に激しい不服を訴えるのを防ぐためです。

しかし、今回はそれが見事に逆に作用しました。退場したのがフランスの英雄だったからです。「あのジダンが退場になるような行為をするはずがない!」フランスのサポーターはそう信じていました。観客としてはボールの動きに注目しているため、後にテレビで見た、マテラッツィへの胸に激しく頭突きする姿を目撃した人はかなり少なかったはず。ですから、何の説明もなくレッドカードが出されたことに、激しい不信感が表明されたわけです。

ひとり多いはずのイタリアでしたが、ボールを持つたびに激しいブーイングにさらされました。前線に上がる人数も少なく、攻撃は迫力を欠きました。逆に大黒柱の抜けたフランスが積極的にボールを支配していました。間もなく試合はタイムアップ。PK戦は、イタリアが5人決めたのに対して、フランスはひとりバーに当てて外してしまいました。キック一発の差でイタリアの優勝が決まりました。あまりにも歴然とした明暗が、ほんのわずかな差で決まったことに不自然な印象を抱きました。でも、この守備的な大会で優勝したのがイタリア、というのは、象徴的なようにも思いました。国内リーグの八百長騒動で揺れる彼らには、実力を証明する場が必要だったのです。

ワールドカップのトロフィが、イタリアのキャプテン、カンナバーロに手渡されると、高額なチケット代の元を取り戻すかのように、大量の紙吹雪が舞い、屋根からは花火が吹き出しました。スタンドからは、あまり花火を見ることができず、その花火がテレビ向けであることに気づきました。トロフィを持ってウィニングランする選手たち、そこに"we are the champions", "aida"といった、優勝にふさわしい音楽が流れ、セレブレーションは最高潮に達しました。

やがて観客はスタジアムを去り始め、少しがらんとした感じになると、急にワールドカップが終わったんだな、という感慨に包まれました。祭の終わりのさみしさです。近くにいた観客と記念撮影して、残ったお土産を買い、帰路につきました。

街では、こんなに来ていたのか!と驚くほど多くのイタリア人が集結していました。目抜き通りには大きな国旗を掲げ、クラクションを鳴らす車が集まり、スーパーのカートに乗って歓声を上げる女の人もいました。イタリア代表の宿舎前には、選手たちの帰りを待つサポーターが「世界一だ!」「イタリア万歳!」などと歓喜の声をあげて、何度も国歌を歌っていました。陽気なイタリア人にセレブレーションはよく似合っていました。

4年前の日韓大会に比べて、このドイツのワールドカップは、結果的にも試合の内容面でも、充実していたように思います。決勝トーナメントに入って、ドラマティックな同点劇や逆転劇がほとんどなかったのは残念でしたが、スタジアムの雰囲気、選手のコンディションは明らかに良かったように見えました。とにかく、長期間ワールドカップを見ることができて、本当に幸せでした。



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