大阪最古の洋風建築「泉布観」に入ってみた

2007/03/24
大阪の中心街に残された数少ない(!?)国の重要文化財・泉布観(せんぷかん)。明治4年(1871)に建てられた、現存する大阪最古の洋風建築ですが、たった3日間しか公開されないというわずかなチャンスに行ってみました。

場所は大阪城北詰駅から歩いて10分、「桜の通り抜け」で知られる大阪造幣局のすぐ隣にあります。「重要文化財 泉布観」という石碑が建っていました。入場料は無料。ただ、建物の傷みが激しいせいか、30人までの入館制限がされてました。見学者用に用意されたスリッパがすべて使われたら、見終わる人が出てくるまで待たなくてはなりません。

泉布観

泉布観はれんが造りの2階建てで、周囲にベランダを巡らせた「ベランダ・コロニアル」形式。設計したのは、イギリス人技師のウオートルス。明治初期の日本を代表する建築技師です。造幣寮の応接所として明治4年に完成しました。翌年には明治天皇がやってきて、この館の名称を「泉布観」と定めました。「泉布」は貨幣を、「観」は館を意味するのだそうです。

入ってみてまず気づくのは、天井の高さです。非常にゆとりがあります。ヘリンボーン張りの床に、高い天井から下げられた重厚な照明器具に暖炉と、まさに洋館らしい堂々としたつくり。建物の外周に立つ太い柱はトスカナ式と呼ばれます。歴史を感じさせる重厚さに満ちて、神戸の洋館よりも風格を感じます。明治天皇が謁見につかったとみられる部屋は、内装に深紅のベルベットを使っています。広いベランダにはゆとりを感じます。

泉布観 ベランダ

この泉布観の隣には、造幣局鋳造所の正面玄関もあって、これまた重厚で立派なつくり。歴史的建造物として、重要文化財に指定されています。ただ、中は現代的な部屋に改装されていて、表玄関からは一転して、チープな印象でした。

造幣局鋳造所正面玄関

これだけ立派な建物なんだから有効活用すればいいのに、と思うのですが、一般公開はたったの3日で、多くても30人しか入れない。これはメンテナンスの問題ではないかと思われます。泉布観のような立派な歴史的建造物を有効活用できていないことに、大阪市の歴史に対するリスペクトの低さを感じざるをえませんでした。それは京都や奈良とは対照的です。中之島の重厚なビジネスビル「ダイビル」も建て替えられてしまうし(これも京都における新風館の活用とは対照的)、なんとかならないものかと思ってしまうのは自分だけではないでしょう。



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着工直前!餘部鉄橋に行ってみた

2007/03/21
鉄道ファンの間で有名な餘部鉄橋。明治時代末期に架けられた、橋脚の高さ41.5m、長さ309mの朱色の鉄橋は、その造形的な美しさと、日本海を背景にした風景としての魅力にあふれています。この春からの架け替え工事の直前に、その姿を一目見ようという観光客が殺到しているという記事を読み、逆に「おお、それは行っておかなくては」と触発され、好天予報の日に行ってみることにしました。

大阪から餘部までは、特急「北近畿」で城崎温泉に行き、そこからさらに乗り換えます。着くまでに最短でも3時間半はかかります。一番早い電車に乗っても、乗り継ぎの都合で着くのはお昼過ぎ(12時47分)になります。

城崎温泉から餘部までの各駅停車は、2両編成のワンマン運転。山陰本線のローカル電車としては通常編成でしょうが、この日は観光客でかなり混みました。途中の香住から乗車する団体客もいて、ラッシュのような状態になりました。自分は運良く進行方向右側、日本海が見える眺望良好な席に座ることができました。これは一人旅のメリットかもしれません。

餘部紀行1

餘部の手前、鎧駅に着くと、乗客が皆そわそわと動き、それぞれデジカメや携帯、ビデオを用意します。餘部鉄橋の通過の時間はおよそ20秒。気がついたときにはもう遅い、というわけです。鉄橋はトンネルを抜けていきなりすぐやってきました。観光客の撮影のためか、普段もそうしているのか、わかりませんが、列車は思ったよりもゆっくりと鉄橋を渡りました。車窓からは日本海が広がり、非常に眺めのいい景色。単線で線路の両脇をガードする柵が細く、真下まで見下ろせました。でも、鉄橋の下で生活する人たちにとっては、風の強い日の恐怖感があるだろうな〜(だから架け替え工事が行われるわけですが)

餘部紀行3

餘部駅で、乗客がドッと降ります。細いホームには観光客があふれます。普段は無人駅のはずですが、この日は乗客整理と記念の1000円のオレンジカード販売を兼ねて、駅員が二人いました。駅からすぐ近くに撮影ポイントが設けられていて、そこには三脚を立てて待ち構えるカメラオヤジや鉄道ファン、家族連れや中高年観光客が入り交じってました。今回は、こういう事態を予想して、近くのインテリアショップで買った小さな踏み台を持って行きました。これが効力を発揮しました。

予定では、自分の乗ってきた各駅停車の15分後に、特急列車が通過することになってます。周囲とけんかしないポジションを固めて、列車が来るのを待ちます。なんと空には明らかに撮影用のヘリコプターが飛んでいました。この日は太秦での故障で10分以上列車が遅れていましたが、事情を知らない人たちは「なぜ列車が来ないんだ?」と不安の声を上げていました。

すると、トンネルから出てくる特急列車の姿が見えました。ご丁寧にも、鉄橋にさしかかるときに汽笛を鳴らしてくれます。スピードもかなり遅め。ゆっくりと撮影できました。細い鉄橋を渡るさまは、かつてのアニメ「銀河鉄道999」に通じるものがあって、どこか旅愁を誘います。

餘部紀行2

餘部を通過する列車は本数がとても少ない! この特急列車の後に鉄橋を通過するのは、逆方向(城崎温泉方面)に向かう各駅停車で20分後ですが、城崎温泉に戻りたい自分にとっては、この各駅停車を撮影して、その次の列車に乗るのに2時間近く待たなくてはいけないことになります。ということで、橋の周辺を軽く歩き回って、記念のオレンジカードを一枚購入して、そそくさと餘部を後にすることにしました。三脚を立てたアマチュアカメラマンの方々はベストショットを目指してひたすら待機されるようです。お疲れさま。

実際に鉄橋の上を走る列車に乗ると、あっという間に渡ってしまいます。今後、4〜5年で安全と定時運行のためにコンクリート製の橋に架け替えられるということで、今までの鉄橋の魅力はなくなってしまいそうです。この地区の観光資源としての魅力もあるはずなので、もしできたら残してほしいですけどね〜。メンテナンスが難しいかもしれませんが、惜しいです。


せっかく餘部まで来たので、城崎温泉に立ち寄りました。駅前の食堂「大黒屋」でカニにぎりを食べ、ボリューム感のあるカニをいただきました。温泉街の奥には、温泉寺という真言宗の寺があって、これが名前から受ける印象よりも由緒あるお寺でした。33年に一度ご開帳される11面観音や、南北朝時代に建てられた大悲殿など、いくつかの重要文化財を誇ります。

城崎温泉1

温泉は、7カ所の外湯のうち、洞窟温泉のある「一の湯」に入りました。熱さはマイルド。お湯は無色透明で癖のない感じです。半身浴をしばらくするうちに、肌がツヤツヤとしてくるのがわかりました。夕方、浴衣姿の宿泊客が下駄をカラコロと響かせながら外湯巡りをする様は、非常に旅情緒を感じさせてくれました。温泉街はかつて志賀直哉が滞在しただけあって、文化の香りを感じさせる街並みです。道後温泉や有馬温泉と通じる品の良さを感じました。

城崎温泉2

城崎温泉から大阪に戻る最終の特急は18時14分発。早いなと思っていたら、温泉街は午後5時を過ぎると店がどんどん閉まっていくのでした。カニちらし弁当でも買って、帰りの列車で食べられたらな、と思いましたが、まったく売っていませんでした。事前に予約する必要があるようです。

結局大阪に着いたのは午後9時ちょうど。まさに12時間の旅でした。そのうち半分以上が乗車時間ですが、鉄橋を見て、カニ食べて、温泉に入ってと盛りだくさんで充実した一日でした。今度はもう少しゆっくりしたいですね。



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左義長祭で「ヤレヤレ」@滋賀・近江八幡

2007/03/18
高さ5mを越える巨大な松明が一気に燃える! 左義長(さぎちょう)まつりは、近江八幡に春の訪れを告げる、豪快な火祭りとして知られています。新宮のお燈まつり、菅原神社の火渡り神事、東大寺二月堂のお水取りと、今年に入って様々な火祭りを見てきましたが、この左義長まつりも、かつて織田信長が参加したこともあるというのがうなづける、威勢のいいお祭りでした。


左義長は「とんど」とか「さえのかみ」などとも呼ばれ、正月の松飾りや注連縄を集めて焼く行事として、全国各地で行われています。この火にあたって、一年間の無病息災を祈るわけです。中国でお正月に爆竹を鳴らす習わし(今でも旧正月に中華街でやってますね)が起源で、日本では平安時代に宮中で行われた「打毬」(だきゅう:ポロのようなスポーツ)で破損した杖三つを結んで焼く行事から発展したのではないかと考えられています。近江八幡の左義長は、元々、安土城下で行われていたものが、八幡に移ってきたのが始まりだと伝えられています。

左義長は、以下の3要素を1本にまとめて、細い電柱のような長い担ぎ棒に通されます。
・三角錐状に12段のわらが重ねられた「松明」(高さ1.8or2.1m)
・松明の上につけられる青竹と短冊形の赤紙:これが左義長にボリューム感を加えます。
・正面に飾り付ける「だし」:毎年、干支にちなんだり、タイムリーなテーマを考えて、穀物や海産物、特産品などを使ってつくります。毎年コンクールが行われますが、それぞれテーマが違っていて見る目を楽しませてくれます。今年は猪を生かしたデザインがほとんどでした。

氏子のエリアに分かれた、大小合わせて14基の左義長が市街を練り歩きます。「踊り子」と呼ばれる担ぎ手は、それぞれ揃いのハッピやつなぎを着て、下駄をはいてました。「チョウ、ヤレ!」「ヤレ!ヤレ!」「マッセ!マッセ!」とかけ声をかけながら威勢良く進みますが、左義長はかなり重いようで、踊り子たちの表情は生き生きとしているというよりは、苦難に耐えているような感じでした。時々よろけては、年長者が「ほら、頑張んかい!」とハッパをかけていました。旧城下町のエリアでは、道幅が狭いので、大きな左義長が民家や壁に当たりそうになりながら進んでいくので、かなりスリルと迫力があります。

左義長まつり・渡御2

揃いの衣裳といっても、変装や女装をする踊り子が多く、しかも金髪度が高かったので、かなり自由度の高い祭だと感じました。さらにパックの日本酒を飲みながら担ぐので、左義長の周囲が酒臭かったですね〜

祭のハイライトは、夜8時以降に行われる、左義長の奉火です。日牟禮八幡宮の鳥居をくぐり、境内に至るまでの広場が会場です。残念ながら、最初に5基の一斉奉火を見ることはできませんでしたが、一つ一つの左義長が一気に燃え上がる様は、かなり迫力があります。上空に上がった燃えかすが自分のところにも落ちてきて、ちょっと熱かった! 踊り子たちは、燃え盛る左義長のまわりで肩を組んだり走り回ったり、かなりハイになってました。

左義長まつり・奉火

左義長が燃え尽きるのを見届ける前に、踊り子たちは日牟禮八幡宮で祭の無事を報告し、お神楽の奉納を見届けて、最後に万歳三唱。工夫をこらして「だし」をつくり、重い重い左義長を2日間担いで町内を回る。疲れを乗り越え、フィナーレを迎えた彼らを見ていると、祭りに参加した者だけが味わえる充実感が、こちらにもひしひしと伝わってきました。

左義長の最後の奉火は午後10時40分の予定でしたが、午後11時近くになっても始まりません。近江八幡から京都経由で大阪へ向かう終電は23時32分発。祭りの会場から近江八幡駅までは車で5分くらいですが、歩いたら30分以上かかります。流しのタクシーはないので、不安になって、最後の奉火を見届けることができずに、タクシーを呼んでしまいました。残念!


近江八幡は、「メンターム」で有名な近江兄弟社や、和菓子のたねやなど、近江商人の血を引き継ぐ町です。町を歩いていても、文化の香りのする民家や、昔ながらの水郷が残っていたりと、いい味わいを感じました。祭りは伝統文化の継承や世代を超えた交流、地域社会の団結をもたらす、とてもよい機会になります。伝統ある、勇壮なこのお祭りによって、近江ならではの文化や伝統が引き継がれていってほしいな、と思いました。


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我が指導教授の最終講義

2007/03/03
今回は我が指導教授、島田晴雄先生の最終講義のメモを記します。島田先生は、この3月で定年より1年早く慶応義塾大学を退官、千葉商科大学の学長に就任されます。自分にとっては、大学2年の「自由研究」という授業から、3年、4年のゼミまで、3年間お世話になりました。

先生は何事にもとにかく前のめり。頭の回転が速くてフットワークが軽い。この人の辞書に「ゆるい」という言葉はないように思えます。この最終講義では、先生の半生を振り返りながら、これからの時代を俯瞰し、われわれへのメッセージを残す、というものでした。

***
学生時代はAが53個、Bが4個という、空前絶後の「金時計」。英語のスピーチコンテストでは帰国子女をさしおいて、トップになるという快挙を成し遂げました。

「泳いででも、アメリカに行きたかった」フルブライト留学。米国でも全米トップクラスの成績で高い奨学金を獲得します。彼にとってのひとつの到達点は、ある学会で、自分が労働経済学を志すきっかけとなった本を記した、憧れのダンロップ先生が、自分に会いにきてくれたこと。以来、「労働経済のことはシマダに聴け」ということになったのだそうです。

帰国後は慶應義塾大学経済学部の教授として研究活動や後進の指導にあたったほか、細川内閣、橋本内閣、小泉内閣などの歴代内閣のブレーンとして活躍されました。島田ゼミからは、およそ600人が卒業していきました。
***

団塊の世代は、アメリカを憧れに、懸命に学び、経済成長を果たすというゴールをひたすら追い求めた。それで良かった。今は、アメリカはゴールのひとつに過ぎない。世界は複雑になり、日本も世界も大きな転換点に来ている。

・すでに日本は世界の先進国。必ずしもアメリカから学ぶ必要はなくなった
・インターネットの出現でフラットな世界が現れた。情報格差がなくなった。
・BRICsの成長(2050年には先進7カ国を大幅に上回る経済力をもつようになる)
・日本社会の高齢化、人口減少
・地球環境問題が深刻になった。

高齢化が進む日本は、1980年以降のイギリスが体験したような、海外から人とモノをどんどんと受け入れる国に変わっていかなくてはならない。そのためには、海外の人から見て、魅力ある国づくりをしなくてはならない。

国内市場が縮小に向かうなかで、日本企業は、サムソンのように、海外での売上が総売上の8割になるような時代がくる。それを前提とした社の体制、戦略をつくらなくてはならない。ということは、世界中(特に、インド、中国、ロシア)とコミュニケーションをとって仕事をすることが、より一層当たり前の時代になってくる。


このような時代の大きな節目で、われわれ一人ひとりは何をすればいいのか。そのヒントは、150年前、幕末から明治を駆け抜けた、福沢諭吉のメッセージにある(このへんに触れるあたりが、さすが慶應義塾と言うべきか)。「西洋事情」「文明論の概略」「学問のすゝめ」…

「文明とは人の智徳の進歩なり」(←本当にいい言葉です!)
「知は力なり」:知識を蓄えよう。本を読めば、そこに行かなくても、行ったかのように話ができる!
「目的意識を持て」:知識を持ったら、それを何のために使うのか、明確にせよ。
「よい友達を持て」:努力をしただけ、それに見合った友達ができる。人生はそこから開ける。人は一人では生きていけない。

世界中から見たら、日本人の生活水準は非常に高い。朝起きたら、世界中が羨望と嫉妬のまなざしで見ている。いい意味での緊張感をもって毎日を過ごそう。


久しぶりの島田節でした。先生は感無量になることもなく、早口でしゃべり倒しました。小さな体から溢れ出る豊かなバイタリティ…最終講義も、先生の前のめりな人生を反映していたのかもしれません。そうです。悩んだり引きこもったりする暇はないのです。過去を振り返るより、いまできることを見つけて走り出そう! そんな元気をいただきました。


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