幻の蟹を完食!@京都・先斗町

2007/11/27
この季節のおいしい食材と言えば、何と言っても蟹。そのなかで「幻の蟹」と言われるほど希少価値の高いのが、間人蟹(たいざがに)です。その間人蟹を、食通の間では知る人ぞ知る、予約至難な京都のとある割烹にていただくことができました。

ずわい蟹は獲れた地方や漁港によって呼び名が異なります。丹後・山陰地方では「松葉蟹」、福井・石川県では「越前蟹」、兵庫県の香住で獲れた蟹は「香住蟹」となります。間人蟹は、丹後半島の間人港で水揚げされたずわい蟹のことを指します。間人漁港には小型の底引き網船が4隻しかありません。12月〜2月の海の荒れる時期には漁に出ることが少なくなりますから、獲れる蟹の量が限られてきます。さらに、間人港は蟹の漁場に最も近いため、底引き網船は基本的に日帰りで、蟹の鮮度が良いうちに水揚げされ、流通に回ります。蟹は時が経つほどに小さくなっていくのだそうです。

では、その日いただいた、蟹の入ったお料理や、調理中の蟹を以下に掲載します。

まずは、椀ものから。
つか本の間人蟹1

つづいて、メスの甲羅にオスの実が乗った、お寿司。一緒にいただいた、淡路のうにも素晴らしい!
つか本の間人蟹2

つか本の間人蟹3

つか本の間人蟹4


ここであえて、甲羅酒を注文すると、出てきました!お酒の香りより、蟹の香ばしさの方が強く香ってきました。

つか本の甲羅酒


最後も、蟹でだしをとった、蟹雑炊が出てきました。
つか本の蟹雑炊


食べ終わってから、全身が蟹を焼いたあとのような、香ばしい香りがしました。蟹の香りが強いので、食べ過ぎて、胸焼けを起こしそうになっている人もいました。あの香ばしさ、ふわっとした歯ごたえ。これが忘れられなくて、ふだん仕事しているのかもしれない。そういう思いにさせていただいた、割烹のご主人の腕前と、立派な蟹に感謝です!



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最上級の遊女と...@京都・輪違屋

2007/11/23
華やかな芸妓・舞妓さんの世界で、茶道や舞、音楽などの諸芸に特に秀でているとされる太夫。いま5人しかいません。そのうちの1人の芸を見て、さらに直接お話できるという会に参加することができました。もちろん「一見さんお断り」。そのディープな世界は、現代ではどうなっているのでしょうか?

輪違屋看板

いま、太夫を置く「置屋」は「輪違屋」のみです。輪違屋は、元禄元年(1688)に京都西部の遊郭エリア、島原地区で創業した置屋兼揚屋(大規模な茶屋)です。この地区にいるので、太夫は「島原太夫」と呼ばれます。その建物は、江戸末期の置屋建築として京都市指定文化財に登録されています。浅田次郎原作の時代小説「輪違屋糸里」は今年9月にTBSで2夜連続ドラマとしても放送されました。

輪違屋外観

場所は阪急大宮駅からタクシーで5分ほどのところです。「西陣」と同じように、京都に「島原」という地名は実際にはなく、あくまで通称です。1867年に建てられたという、とても雰囲気のある島原大門をくぐると、すぐに着きました。

輪違屋外観2

まずは、太夫の「道中」を見学です。頭は3kg、着物は20〜30kg、履物(三つ足)は片足2kgという重さの衣装を身につけて、前には禿(かむろ)という小さな女の子を、後ろには傘持ちを従えて、半円を描くように一歩一歩進んでいきます。あれだけ重い衣装、独特の歩き方なのに、下を向いてはいけないのでしょう、前をキリリと見据えて歩いて行きました。

太夫道中

禿(かむろ)

つづいて、置屋建築の中をぐるっと見学します。何と言っても有名なのは「傘の間」です。
輪違屋・傘の間

紅葉が漆喰の中に埋め込まれています。味わいがあります。
紅葉の間

紅葉の間2

約150年前につくられたという、打ち掛けも見事!
輪違屋のうちかけ


続いて、太夫のショータイムに入ります。まずは打ち掛けを使っての舞。ろうそくの明かりの中で舞うので、写真になりませんでしたが、とにかくあでやかで、ゾクゾクとするような色気を感じました。郷ひろみのジャケットプレイの元祖はここにあるのかも!? 引き続き、お抹茶を点てます。裏千家の点前です。流れるような所作でした。
太夫のお点前

つづいて、再びろうそくの明かりに囲まれながら、胡弓の演奏です。弓ではなく、本体を動かすことによって音を出すのが新鮮でした。
太夫の胡弓演奏

さらには、舞。文を書くようなアクションも。
太夫の舞1

太夫の舞2

ショータイムが終わると、お食事です。太夫もお酒をもって近くに来てくれました。
太夫と談笑

せっかくなので、話しかけてみました。
「お稽古大変でしょう?」
「そうどすな。昔は、7つ習っていましたが、身につかないので、今はお茶、舞、胡弓、書の4つにしています」
「イブの予定って、どうなってます?」(周囲「なんてことを聞くんだ!」と騒ぐ)
「空いてますえ。よろしくお願いします(微笑)」

ひととおり、参加者にお酌をしたところで、太夫は退席。代わりに、芸妓さん、舞妓さんがお一人ずつ入ってきて、引き続きお酌。背中が若いな、と思って聞いてみると、舞妓さんは17歳です。なかなか共通の話題が見つけられないので、どうしても会話はインタビューのようなQ&Aになってしまいます。やはりお茶屋遊びは常連が楽しいのです。
舞妓さん

そうこうしているうちに、毎度おなじみ、祇園小唄の時間です。「月はおぼろに、東山〜」
芸妓・舞妓「祇園小唄」

楽しい時間もあっという間。3時間以上たっていました。参加者一同が席をたつと、部屋の隅に、新撰組の近藤勇の書を屏風にしたものが見つかりました。
近藤勇の屏風

輪違屋には、バーが併設されています。ここには数々の文化人や経済人、政治家もやってくるのだそうです。ここでテンションの高いご当主が登場。深夜までご機嫌なトークで楽しませていただきました。

教養のある人が楽しめる空間とはいいものだと思いました。キャバクラではこうはいきませんからね。ただ、ある程度リーズナブルでないと、行きたくても行けないな...残念です。


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国宝の修理現場に入った!@滋賀・園城寺金堂

2007/11/17
今月はなぜか歴史的建造物の屋根とご縁があるようで、奈良の平城宮大極殿、唐招提寺金堂につづいて、園城寺金堂の屋根の修理現場が公開されました。公開期間は、この日を含めてわずか4日間。しかも、今までの瓦葺(かわらぶき)と異なり、今回は日本古来の檜皮葺(ひわだぶき)の屋根に急接近できる貴重な機会です。

園城寺金堂修理現場外観

園城寺(=通称・三井寺)は、京阪京津線の三井寺駅から徒歩10分弱のところにあります。JR琵琶湖線から離れていて、ちょっと不便です。大阪からJRで行く場合、山科から乗り換えるのが便利です。

園城寺(おんじょうじ)は天台寺門宗の総本山で、天皇の産湯に用いられた霊泉(御井=みい)があることから、三井寺(みいでら)と呼ばれています。672年に創建され、古くから名刹として知られます。今回、檜皮葺の屋根が修理される金堂は、豊臣秀吉の正室、北政所によって1599年に建てられたものです。23m四方の大きな仏堂で、内陣に床を張らず土間で構成されるところが大きな特徴です。檜皮葺の屋根は、やわらかい感じが特徴です。

檜皮葺模型

修理現場に着いたのは、午後2時20分頃。ちょうど10分後からの見学ツアーの申し込みの締め切りがあと3人となっていました。見学は団体行動だとは知らなかったので、ちょっと驚きながらも、そそくさと申し込みました。ツアーは40人程度で一グループ。全員ヘルメットをかぶり、かばんは入口で預けて、カメラと貴重品とメモを手に現場に入っていきます。

坂を上っていき、屋根が見えてくると、その迫力に驚きます。カメラの画角に入りきらないほどの広がり、檜皮の厚み、暖かみのある色が一体となって迫ってきます。

園城寺金堂修理現場2

園城寺金堂修理現場3

社寺建築は屋根の稜線美を見るべし!この緩やかなカーブがなんとも美しいですね。

園城寺金堂修理現場4

金堂を半周したところで、現場担当者から、修理についての説明をいただきました。檜皮葺(ひわだぶき)とは、ヒノキの立ち木から皮をはいで、それを屋根の材料に使う技法のことをいいます。日本でしか見られない屋根で、飛鳥時代に始まり、鎌倉時代には今日見られる技法が確立したそうです。

檜皮葺の屋根接写

屋根に使われる皮は、樹齢100年以上の檜から、原皮師(もとかわし)という職人が採取します。原皮師は、いとも簡単に檜を登っていって皮を切り取るのだそうです。そうして取れた皮は、「拵え(こしらえ)」という作業によって、厚みや形が整えられます。膨大な下準備の後、初めて檜皮葺の作業が始められるのです。

檜皮葺の材料1

檜皮葺の材料2

檜皮葺の材料3

檜皮は竹釘で固定されます。鉄の釘を使うと錆びてしまい、そこから屋根が腐食してしまうのだそうです。竹釘は、これまた専門の職人・竹釘師が製造しています。檜皮を湿らせた状態にしてから、屋根葺き技能者が竹釘をテンポ良くたたいて留めていきます。

檜皮葺の現場

実際に近づいて見ると、檜皮の厚みが印象に残ります。間に入っているのは銅板。これだけの檜皮を葺くのは大変な労力が必要なことがわかります。でも耐用年数は40年ほど。材料を確保するのも大変ではないかと、素人ながら心配になってしまいます。

檜皮葺の屋根接写2

屋根の頂点近くまで近づくことができました。作業を間近で見られます。高所恐怖症の人には務まらない任務です。

檜皮葺の現場

檜皮葺の現場3

檜皮葺の現場4

見学を終えた後に、檜皮葺体験コーナーで、竹釘をたたいてみました。竹釘を何本も口に入れておき、そのうちの1本を出して、専用のかなづち(檜皮金槌)の中心に持ってたたきますが、これが難しい!口の中で竹釘が踊るうちに、ザラザラしてきます。

竹釘

このほかに、柿葺き(こけらぶき)の技術を紹介するコーナーもありました。

こけら葺き体験コーナー

それにしても、緻密に皮を積み上げて、屋根にしてしまうという発想もすごいし、形も美しい。飛鳥時代から積み上げられてきた、日本の建築技術の高さに感銘をうけました。それに、国宝の修理現場を間近で見て、職人の技術を体験できるのは、非常に興味深いし、良い企画だと思いました。

檜皮葺の屋根接写3


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最上級の芸妓さんを拝謁@京都・清涼寺

2007/11/11
芸妓の世界で最上級の遊女を「太夫」と呼びます。太夫は芸事だけでなく、上流階級のお相手を務めるだけの教養(茶・花・和歌など)を兼ね備えているとされます。京都で有名なのは、島原太夫(島原という花街の太夫)です。江戸初期の島原の遊女・夕霧太夫は、才色兼備で当代一の人気を集め、近松門左衛門の歌舞伎や浄瑠璃のモチーフにもなりました。この日、嵯峨・清涼寺では夕霧供養が行われ、現役の島原太夫が参加します。法要から墓参りまでの道中では、一般の人間も近づいて、ご尊顔を拝することができるということで、行ってみることにしました。

清涼寺

午前10時30分過ぎ、清涼寺に到着すると、本堂ではすでに法要が始まっていて、中の様子を見ることはできません。本堂前には10人以上がカメラを手にぶらぶらとしています。これはいわゆるひとつの「出待ち」みたいなものでしょうか。何の案内もありませんが、その場で自分も待つことにしました。小雨に降られながら待つこと40分あまり、ようやく島原太夫が登場しました。どんな美女が出てくるのでしょうか?

夕霧供養1@清涼寺

太夫の両隣にいる少女二人は「禿」(かむろ)と言います。
さすが、太夫、遠くからカメラ目線をいただくことができました。え?目が合ってない?
夕霧供養2@清涼寺

写真撮影が終わって、墓地までの道中に向かう、島原太夫。
島原太夫

足下はこんな具合になってます。足下を見つめずに歩く太夫。一歩一歩、半円を描くように前に歩みを進めていきます。
島原太夫2

やがて、太夫はカメラの放列に取り囲まれます。動揺一つ見せず、まっすぐ前に視線を向けて、口元に笑みを絶やさずに歩く姿は凛としてます。さすがです。
島原太夫3

夕霧太夫は、なんと26歳の若さでその生涯を閉じたのだそうです。花の命は短いのですね〜。だからこそ、こうやって今でも供養するのでしょう。

芸妓さんの日常を聞くと、彼女たちが日々、舞やお茶の稽古、お座敷に追われて、いかに忙しいかに驚きます。太夫の日常はどうなっているのでしょうね? 

振り返って、我々の社会では、教養が軽んじられるようになって久しいのではないかと思います。資産さえあればセレブ扱い。六本木ヒルズに住み、キャッシュフローを稼いだ者が勝ち組扱い。江戸時代は、富と地位のある人たちでも、馬鹿にされないようにと教養を磨いたのではないでしょうか。太夫の姿を見て、現代ニッポンの軽さを憂いてしまうのは、考え過ぎなのかなあ。


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「京都限定、30日間の奇跡」狩野永徳展@京都国立博物館

2007/11/10
日本の美術史上、最も豪華絢爛な桃山時代に活躍した絵師・狩野永徳。当時「天下一」と言われたにも関わらず、その作品の多くは戦火で消失、「彼の作品に間違いない」というものは10点しかないと言われます。展覧会をするには致命的なほどの少なさです。今回の展覧会では永徳の代表的な作品がほぼすべて集まり、「30日間、京都限定」で行われます。この貴重な機会、少しでも興味がある者としては行ってみたくなるものです。

その結果が、最長120分待ち(!)という過熱ぶりになって現れています。そういえば、相国寺で行われた伊藤若冲展は最長5時間待ちでした。こうなると、朝一番か閉館間際が一番良い、ということで、今回は延長された閉館時刻(20時)に見終わるように行ってみることにしました。

狩野永徳展@京都国立博物館2

京都国立博物館に着いたのは、午後5時40分。このとき「30分待ち」の表示が出ていました。博物館の外のテント下に4列で並びました。数十人ずつ入っていっては、列が止まりました。結局事前のお知らせよりは早めに、博物館には午後6時少し前に入れました。音声ガイドを借りて、入館。

まず、眼に飛び込んでくるのは、大徳寺・聚光院の花鳥図や琴棋書画図です。お茶会に行ったときなどによく見ていたのですが、こうやって美術品として展示されると、改めてその美術的価値の高さに驚きます。永徳24歳のときの作品です。線の一本一本が力強いのが印象に残ります。

展覧会の中心部分には、目玉の展示品「洛中洛外図屏風」があります。永徳23歳のころの作品です。ここには人だかりができて、なかなか近づくことができません。なにせ、一枚の屏風に2500人近くの人がいきいきと描かれるという細かさですから、みなガラスケースに目を近づけてゆっくりと見てしまいます。実際見てみても、筆で書いたとは思えない細さです。鉛筆で書けるかどうか、という感じです。背後からは「動きながら見てください」と誘導の声がかかりますが、なかなか思うように動いてはくれません。

展示の終盤は、桃山時代らしい、豪華絢爛でスケールの大きい絵が登場します。絵柄も松の木の直径が1m以上と大きな描き方のものが数多く見られました。信長や秀吉など、多くの戦国武将に重用された狩野永徳は晩年、さばききれないほど多くの発注を受けていました。戦国時代は「描けません」と言うと、あっという間に首を飛ばされてしまうので、発注を受けざるをえません。当然、細かい絵を描く時間はなく、スケールの大きな絵が中心になってしまったのでしょう。永徳は結局、過労のために亡くなったという説があります。

狩野永徳展@京都国立博物館


確かに、これだけの作品が一度にそろうのは、大変なことです。作品の出身は、アメリカのメトロポリタン美術館や、フランク・ロイド・ライト財団、宮内庁三の丸肖蔵館、東京国立博物館に、米沢市上杉美術館、南禅寺などなど、すごいところばかりです。

見る側にとっては、永徳の作品を一度に見ることで、彼の人生と作品、それに時代背景がシンクロしてきて、非常に面白くわかりやすかったです。もちろん、絵も迫力、見応え満点でした。結局、京都国立博物館を出たのは、午後7時45分。閉館15分前でした。


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