岩窟めぐり@大阪・磐船神社

2008/12/27
今年も様々な寺社仏閣に行ってきましたが、スケジュール的に行けるのは、この日が最後。さしたる面白そうなイベントもないので、今まで行けなかったけれども、ユニークな場所を選んでみました。それが、磐船神社です。社殿の背に巨大な岩がそびえ立つ、ビジュアル的に迫力満点の神社です。その横の岩窟めぐりができるのは、午前9時〜午後3時半、しかも晴れた日のみ。事前に電話で拝観可能か、確認してから向かいました。

磐船神社1


磐船神社は、大阪府交野市と奈良県生駒市の境にあって、近鉄生駒駅から1時間に1本しか走らないバス(82系統)の終点・北田原バス停から、さらに10分ほど歩いたところにあります。バス停の近くに地図や看板がなく、近くのコンビニで行き方を聞いて、ようやくたどり着きました。

磐船神社入口


社殿の隣にある民家に、拝観受付があって、そこで拝観料500円を支払い、行衣(しろたすき)を借ります。
磐船神社の行衣


さらに、岩窟めぐりでは、鞄の持込はNG、しかも靴も歩きやすい靴(ヒールなどはもちろんNG)でなくてはなりません。後でその理由がよくわかりますが...

背後の巨石に圧倒されながら、まずは参拝。この巨石、高さ12m、幅12mもあるのです。この巨石が磐船神社の御神体で、これに乗って饒速日命(にぎはやひのみこと)が降臨したと信じられています。
磐船神社2


いよいよ、岩窟めぐりへ。冒頭から、細くて急な階段を下ります。
岩窟めぐり1


下りてすぐのところに、真っ暗な岩窟の中に、朱色の小さな鳥居があります。あまりにも暗いので、ほとんど見えません。
岩窟めぐり2


巨大な岩と岩の間を縫うように進んでいきます。岩の下には水がチョロチョロと流れています。
岩窟めぐり3


ときおり、どっちに進んだらいいか、わからなくなることがあります。すると、白ペンキで進行方向が記されているのです。
岩窟めぐり4


岩窟めぐり5


え、こんな狭いところを通るの?という場所もあります。鞄持込NGなのが、よくわかります。
岩窟めぐり6


さらに、ヒト一人通るのがやっと、という地点へ。足から滑り降りるようにとの指示です。ひゃー。
岩窟めぐり7


いったい、どこに向かっているのか、わからなくなってきます。あとは白ペンキの指す方についていくだけ。
岩窟めぐり8


岩窟めぐり9


さらに、ロッククライミングのような場所もありました。滑りやすい靴NGの理由はここにあります。
岩窟めぐり10


やがて、洞窟の暗闇にうっすらと鳥居が見えました。ここに龍神様が祀られています。(写真はフラッシュをたいて明るくなってますが、実際は真っ暗です)
岩窟めぐり11


岩窟めぐり12


洞窟を抜けると、明るい光が差し込んで、空が見えます。身も心も一気に解放された気分に。

これで岩窟めぐりも終了かと思うと、巨岩が視界に飛び込みます。まずは「天の岩戸」
天の岩戸@磐船神社


「白福大臣」と彫られた巨岩も。これらの巨岩を、男女の守り神として崇敬したというエピソードもあるそうです。
白福大神@磐船神社


およそ30分、ゆっくりと岩の間をすべるように進む、アスレティックな体験でした。これが修験道の寺ではなくて、神社というのが珍しい気がしますが、仏教伝来前から、巨石信仰の地として知られていたのかもしれません。

今年も、様々な場所を訪れ、見聞を深めることができました。来年も元気にいろんな場所を訪ねてみたいと思います。
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天草一周ドライブ

2008/12/14
天草の旅、2日目。予報よりも早く天気が回復しそうなので、朝からガイドブックで紹介された名所に立ち寄りながら、天草下島をグルッと(時計回りに)ドライブすることにしました。

まずは、天草の中心地・本渡(ほんど)の観光スポットへ。

祇園橋。1832年完成の石橋で、国指定の重要文化財。多脚式の石橋は珍しいそうです。歩いて渡ってみましたが、ゴツゴツとした石肌に歴史を感じました。この付近は、天草の乱の激戦地だったそうです。ということは、戦っている時は、石橋はないわけです。混乱しそうですが。
祇園橋@天草・本渡


車で3分くらい走ると、殉教公園があります。天草の乱で亡くなった戦没者が眠る千人塚。
殉教公園の千人塚@天草


さらに進むと、今度は天草にキリスト教を伝えたという、アルメイダ神父の碑。その周囲には殉教者の墓が並びます。
殉教公園@天草


つづいて、明徳寺。天草・島原の乱のあとにつくられたお寺で、当時は参道に十字架が刻み込まれていたそうです。そのエピソードに、キリシタン狩りの徹底ぶりがうかがえます。
明徳寺山門@天草


境内には「マリヤ観音像」がいました。キリシタンが御法度の時代、信者たちは日本の神仏を仮の神として礼拝していたそうです。中国渡来の母子観音は「マリヤ観音」と呼ばれていました。お寺の成り立ちを考えると、この像が、崇拝対象になったようには思えないのですが...
マリア観音像@天草・明徳寺


本渡を後にして、天草コレジヨ館へ向かいました。見学者が自分しかいなかったので、マンツーマンでガイドしていただきました。コレジヨとは、カレッジ(College)がポルトガル語になったことば。宣教師の養成を目的とした神学校の最高学府で、1591年から6年間、この地に開校されました。館内には、天正少年遣欧使節団が持ち帰ったという、グーテンベルク印刷機や楽器、衣装、彼らが乗船した南蛮船の複製が展示されています。このグーテンベルク印刷機は、ドイツで400年ぶりに複製された貴重なものです。
グーテンベルク印刷機@天草コレジヨ館


天正少年遣欧使節団、昔、日本史の授業で勉強したのを思い出します。中浦ジュリアン、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ。ガイドさんから、当時、生きて帰ってくる確率は40%と言われていたこと、彼らのその後の壮絶な人生(殉教したり、改宗したり、マカオに流されたり)を聞きました。まさに命がけの航海だったんですね。

崎津天主堂へ。クリスマスを前にライトアップの仕込み中でした。漁村にいきなりゴシック建築のチャペルが立っています。このチャペルは、昭和9年に完成したものです。
崎津天主堂@天草


505段もの階段を上がり、丘の上から見ると、ここが日本なのかと疑いたくなるような景色です。
丘から見た崎津天主堂@天草


この丘は「チャペルの鐘展望公園」。十字架をモチーフにした、大きな塔が立っています。
チャペルの鐘展望公園@天草


この公園、素晴らしいのは、塔と向き合うように広がる展望です。
チャペルの鐘展望公園からの眺め@天草


大江天主堂へ。丘の上にポツンと立っています。ロマネスク様式の礼拝堂は、昭和8年に建てられたものです。しかし、この写真はヒドい。完全に画角がおかしい。
大江天主堂@天草


大江天主堂の近くには、ロザリオ館があります。隠れキリシタンに関する品々が展示されていました。面白かったのは、隠れ部屋のジオラマ。天井裏のようなスペース、暗がりの中で、つぶやくように祈りを捧げていた様子がわかります。それから「経消しの壷」。隠れキリシタンの葬儀が行われている最中に、信者仲間がお経に合わせて、ひっそりと隠れ言葉を唱えながら、お経を壷の中に閉じ込めるということが行われていました。その壷が展示されていました。

そんなこんなしているうちに、正午過ぎになってしまいました。なにせ、ここから本渡まで1時間以上はかかります。本渡から熊本空港までは、バスでおよそ3時間。渋滞にあったらさらに予測がつかない...ということで、ちょっとあわてはじめてしまいました。が、途中に風光明媚なスポットがあって、なかなか進みません。これは、妙見浦からの眺め。写真は暗いけど。
妙見浦@天草


道の駅に寄ったりしながらも、予定より早めに熊本空港に着きました。時間が読めない中でのレンタカー旅行は、焦りばかりが先立って、精神的にゆったりと観光できないのが残念...

それにしても、なぜ天草にキリシタン文化が根付いたんだろうと、思いながらの旅でした。ヨーロッパから航海でやってきた宣教師たち、天災や重税で苦しんだ農民、江戸や中核都市から離れた土地にあったことなどの要因が重なって、細々と語り継がれてきたんだろうと思いました。

*2008年11月24日、長崎で、日本のカトリック教会にとって初めての列福式が行われ、188人の殉教者が「福者」に挙げられました。このなかに、なんと、天正少年遣欧使節団の中浦ジュリアンも含まれていました。殉教という概念自体、自分にとっては希薄なものなので、ピンと来ないのですが、それにしても、400年近い年月の重さを感じずにはいられません。
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魚介を味わう@熊本・天草

2008/12/13
出張先の熊本から足を伸ばして、天草へ行ってみることにしました。天草の魚介類を味わってみたかったことと、日本のキリシタン文化を見てみたいと思ったからです。(今回はデジカメを忘れて、携帯で撮影したため、画像小さめです)

熊本から天草へは、飛行機・高速フェリー・レンタカーと選択肢があります。このうち、飛行機(天草エアライン)は機体整備のために3週間休航中。所要時間は、高速フェリーだと1時間、車は2時間以上かかります。フットワークの良さを考えて、レンタカーを選びました。

熊本を出たのは、お昼過ぎ。天草への道は、天草街道(国道57号線)で向かいました。晴れればとても景色がいいということでしたが、残念ながらどんよりとした曇り、そして時々雨...ということで、まずは天草四郎メモリアルホールへ。このホールでは、16世紀の天草の様子、ヨーロッパとの交流などが描かれています。3階には瞑想ホールがあって、ビーズクッションの上でゆっくりと休めます。ホールの外には、天草四郎像と、天草四郎の墓がありました。

天草四郎像


天草四郎の墓


天草パールラインを通って、天草上島、天草下島へと進みます。天気がよければ、海と島の美しい景色が広がって楽しいドライブになるはずでしたが...結局、どんよりドライブになってしまいました。

天草・富岡城からの眺め


夜、宿泊先に紹介された寿司店Jに行ってみました。この日は忘年会で団体客が一杯でしたが、おまかせにぎりを注文。印象に残ったのは、アジ、穴子、ウニ、フグの炙り、五島のサバ。このお店では、江戸前のように仕事をするのではなく、その日に獲れた魚だけを使うそうです。そのせいで、ネタの歯ごたえがしっかりしているのが特徴です。その土地ならではの寿司が楽しめました。

明日の天気に期待しつつ、とりあえず天草の中心地・本渡(ほんど)近くの温泉で一泊しました。炭酸ナトリウム泉で肌がツルツルです。
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数寄屋建築と庭園の最高傑作@京都・對龍山荘

2008/12/06
京都・南禅寺周辺は、日本有数の邸宅地と呼べるほど、区画の大きい見事な屋敷が並びます。かつて、ここは別荘地だったのが大きな要因といえるかもしれません。その一画に、普段は非公開の對龍山荘(たいりゅうさんそう)があります。そこには「最高傑作!」との呼び声の高い数寄屋建築と庭園が広がります。今回、伝統未来塾の授業で、じっくりと拝見することができました。

玄関。この広さからは想像できないほど、幅が広く、奥行が深いのです。
對龍山荘の玄関


1)「對龍台」(書院造のゾーンです)
九畳の広間に次の間八畳が連なります。
對龍台1


部屋に居ながらにして、ガラス張りの窓の外に広がる、見事な庭を楽しむことができます。
對龍台2


この眺めは、軒先に支柱がないことによって成立しています。明治時代後期、この山荘を建てたのは、東京の棟梁、島田藤吉です。この延々と続く軒に、職人のプライドと技術力を感じます。この軒に張り出した一本の丸太、元末の太さが変わらない材質の高さも見どころです。
對龍山荘の軒


栂(とが)の良材でできた屋内。欄間は菊桐文様です。これは大正4年に天皇が宿泊した際につくられたものだそうです。
對龍台の欄間(菊桐文様)


2)庭
明治時代を代表する作庭家、小川治兵衛による池泉回遊式の庭園です。瑞龍山を借景にしています。この山荘が「對龍山荘」と名づけられたのは、瑞龍山に向かい合った山荘という意味からきています。こちらは、池を眺める待合。
對龍山荘庭園の待合


逆に、待合から眺めた庭園の景色。
對龍山荘待合から見た庭園


待合を右に向くと、これまた立派な灯籠があります。京都の迎賓館の設計にあたって、外務省の担当者が見学しに来たそうです。
對龍山荘の灯籠


池に沿って歩いていきます。水面に青空が映りこんでます。
對龍山荘庭園2


池を離れて、その上流の細い流れと、なだらかな斜面。実は、この写真を撮った場所の背後にある建物からの眺めが素晴らしいのです...
對龍山荘庭園3


對龍山荘庭園4


庭園の奥から、山荘を眺めます。
對龍山荘庭園5


對龍山荘庭園6


對龍山荘庭園7


對龍山荘庭園8


對龍山荘庭園9


田園風情を演出するための、わらぶき屋根と風車。
對龍山荘庭園の小屋



3)茶室と、それに連なる「聚遠亭」
再び、屋内へ。
對龍山荘の茶室


まず拝見したのは、四畳半の茶室。床の間の奥行きが妙に深い...
四畳半の茶室@對龍山荘


水屋を通って、三畳の茶室へ。こちらは、点前座と客座の間に襖があって、敷居が結界の役割を果たしています。実際には、敷居の上に蓋置きを置くのだそうです。ユニークな構成ですね。
三畳茶室@對龍山荘


点前座の奥行きも深くて、向板がついています。
三畳茶室2@對龍山荘


写真はありませんが、床の間も、奥に広い洞床かつ室床。間口と奥の壁の幅が異なるため、どちらを中心にとるかで、掛け軸のポジショニングが変わるのです。これまたユニークですね。規制の多い茶室に自由な発想を見出すと、楽しくなってきます。


茶室から「聚遠亭」へ。とにかく床が低く、庭からつながっているような感覚です。上から土間庇が差し込んで来て、額縁のような役割を果たしています。ここに腰掛けて庭を眺めると、まさに「ほっこり」とします。
聚遠亭から庭園への眺め


隣の小川との一体感を感じます。
聚遠亭から庭園への眺め2


縁側に腰掛けて、お茶を飲みたくなりますね。
聚遠亭の縁側


軒先の天井裏、網代天井になっているのが、シャレてます。
聚遠亭の網代天井


ちなみに、天井というと、2階の天井板に樹齢2600〜2800年の縄文杉が使われているのです。
縄文杉の天井@對龍山荘


日本の数寄屋建築研究の第一人者、中村昌生先生によると、日本の住宅建築は建物と庭が一体化したような「庭屋一致」こそが理想だといいます。この對龍山荘が完成したのは、明治後期。江戸時代から積み重ねられた数寄屋建築と作庭の技術が頂点に達した時期です。これに施主(市田株式会社の創始者、市田弥一郎)が自ら磨いた教養との相乗効果で生み出された、見事な山荘でした。まさに「眼福」でした。

流れつくばい@對龍山荘


自然との一体感を強調した住宅こそ、日本古来の住宅だといいます。そうだとすると、今の高層マンションはその対極にあると言えるでしょう。日本独自の建築文化が復権するには、自然との一体感という原点を、どこかで取り戻す必要がありそうです。
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